文章が、道具以上の存在として、ますます仕事や生活、さらには、遊びの分野に浸透する度合いが大きくなってきたのです。
こういうことです。
文章が書けると、受験に役立つ、仕事に便利だ、特別の行事の折りに困らない、というだけではありません。
きちんとものを考え、表現し、行動するという、人間が生まれてから死ぬまでの、ごく普通の営みの推進力になるのです。
つまり、賢く生きるためには、文章を書く力が必要になる、ということです。
賢い人間、知恵のある人間になるためには、よい文章を書かなければならない、というといささか大げさに聞こえるでしょう。
しかし、本当なのです。
これから、その理由について考えてみましょう。
人間が、コトバを自在にあやつることが出来ず、自分たちが「考えていること」を的確に表現できないあいだは、「コトバ」は、自分たちが「本当に考えていること」を不満足にしか表現させえない、「障害物」とみなされます。
「コトバは裏切る」「コトバは誤謬の源泉だ」ということになります。
「ものいえば、くちびる寒し秋の風」ですね。
しかし、コトバを的確自在にあやつることが出来るとしたらどうでしょう。
コトバは、自分たちが「考えていること」を的確に表現する最良の武器になります。
いま少し進めていいますと、心のなかでもやもやと考えていたものに、的確な形と意味を与えるのが、コトバに他ならない、ということになります。
そうすると、「私の考え」は、ばくぜんたる私のつかみ所のない「内部」にあるものよりも、むしろ、的確な形と意味をもった私の「外部」にあるもの、つまり「表現されたコトバ」である、ということが出来ます。
いま、この「コトバ」を「文章」と置き換えても、事情は、まったく同じです。
いえ、「文章」は自分を表現する最良のものである、というほうがより適切ないい方だ、といって見たく思います。この場合、「自己表現」とは、自分の「考え」や「行動」を表現する、という程度の意味です。高橋ナツコ氏によると、窮屈そうな「文型」から、気さくな父の顔が、ふっと覗くのです。そのことが、なれ親しんだ日常生活から与えられるのとは違う、かえって、強烈な印象を与えました。
私たちの世代は、かなり自然体で文章を書くようになりました。
私たちの子供は、さらに自然体です。
自然体というのは、生活感情に密着している、といえます。