歌曲「流浪の民」

この曲には特に思い出がありますね。
中学生の頃、合唱コンクールで歌いました・・。

合唱コンクールの歌っていうイメージですが、シューマンの1840年の歌曲で、『3つの詩』作品29の第3曲なんですね。

この「流浪の民」は、本来はピアノ伴奏(トライアングルとタンブリンをアドリブで加える)の四重唱曲です。原題は、「ロマの生活」もしくは「ロマの人生」という意味だそうです。

歌はエマニュエル・フォン・ガイベルによって書かれました。
ナイル川のほとりから、スペインを経て、ヨーロッパの町々をさすらうロマ(ジプシー)の生活の物悲しさを歌ったものです。

ジプシーが元々はエジプト民族である、という俗説がわからないと、歌詞の内容は理解し難いです。

ちなみに日本語の訳詞は石倉小三郎によるもので、これは名訳として有名ですよね。

歌曲「詩人の恋」

「詩人の恋」は、ハインリヒ・ハイネの詩によるロベルト・シューマン作曲の連作歌曲です。
作品番号は48。1840年(シューマンの「歌曲の年」)に作曲されました。

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シューベルトを継ぐ代表的なドイツ歌曲作家となったシューマンの、最も有名な歌曲集です。

ハイネの詩集「歌の本」の中の、「叙情的間奏曲」によるものですが、全20篇のうち収録されたのは16曲です。
ハイネは代表的ロマン主義文学者でありながらドイツ・ロマン主義への批判精神を失わないのが特徴ですが、詩の中に盛り込まれた皮肉をシューマンがどれほどまで音楽的に表現しえたかが、いまだに議論の的になっています。

また、同じ詩集から他に『リーダークライス』(作品24)も同年に作曲されています。
お気に入りの詩集だったんですね。

歌曲「女の愛と生涯」

『女の愛と生涯』(Frauenliebe und Leben)は、シューマンが1840年に作曲した連作の歌曲です。

作品42。アーデルベルト・フォン・シャミッソーの詩(1830年)によるものです。


シャミッソーの原詩は彼自身の結婚生活が元になり、夫に尽くす妻の観点を詩としたものですが、

シューマンがこれに作曲したのも自身の経験と切り離して考えることはできないだろうと

言われています。


この歌曲集の特徴としては、ピアノの独立性が高く、声楽と対等な立場で音楽表現に与っている点が

あります。この点で本作品によりドイツ歌曲はシューベルトの圧倒的影響を離れて、

新しい時代に入ったといえるでしょう。


モットー

鋭い感性と知性に恵まれていたシューマンは、ホフマンやジャン・パウルなどのロマン主義文学からも深い影響を受け、その作品は、ドイツ・ロマン主義の理念を、音楽家として最もピュアな形で表現し、その精髄を示しているとみなされています。

シューマンの旋律は、鋭い表現力をもったものがあります。
和声的にも、法則を最大限に活用して、斬新な響きを作り出したんですよ~。
斬新で、鋭い表現力ですよ~。

そして、リズムにも特徴があって、付点音符やシンコペーションを多く使い、力強さや浮遊感を表現しました。色々な手法があるのですね。
更に、時々ですが微細な動機を「モットー」として取り上げて、曲全体に関連性の糸を張りめぐらし、楽曲構成の基礎にしたそうです。
微細な動機・・・・さすが作曲家ですね。

それはときおり隠されたもので。
「モットー」は人名や地名を音名象徴で表したり、自分の作品や他の作曲家の作品から引用されることもあり、その意味でシューマンは、色々な芸術の統合を考えていたのかもしれないですね^^

謎のままに・・

シューマンは病床でも作曲を試みたけれど、回復しないままに1856年7月29日に亡くなったのです。

シューマンの最後の言葉は、ワインを指に付けて夫にしゃぶらせるクララを腕に抱いて囁いたという「俺は知っている」だったそうです。

この言葉の意味が、ブラームスとクララ・シューマンの不倫の事なのかどうかまでは、謎のままで今でもシューマン研究の中で論争が繰り広げられているそうです・・。

更に、以前シューマンの8人目の子供フェリックスはブラームスの子供ではないかと推測されたのですが、今では否定的な考えが多いそうです。
だが、この件でシューマンは自分に似ていない!!という事でクララと喧嘩をしたのだそうです・・。
うーん・・・、実際はどうなんでしょうね。気になります。

精神病院に収容

1854年に入ると、本人も分かっていたという元々のうつ病、音楽の監督をしていた時の精神的疲労に更に、青年期に娼婦より梅毒にうつった事が原因で起こったとされる精神障害が物凄く悪化して、2月27日にデュッセルドルフのライン川で投身自殺をしようとした・・・。うーん、色々と重なってしまいましたね・・。

程なく救助されたのですが、その後はボン・エンデニッヒの精神病院に入れられ、面会が出来なかった為クララにも殆ど会えなかったそうです。

最近、その頃のカルテが発見され、症状に梅毒の兆しが確認された上に、シューマンは『デュッセルドルフが消滅した』と本気で語ったという。

ブラームスを賞賛

1853年9月30日、シューマン家に当時20歳であったヨハネス・ブラームスが訪問し、彼は自作のソナタなどをシューマンとクララに弾いて聴かせたんだけれど、これに対してシューマンは久しぶりに評論を書きました。

「新しい道」という表題でとても賞賛し、未来を予言したそう。
ブラームスは、晩年のシューマンの希望の星でもあったんですよ^^

『ヴァイオリン協奏曲』の誕生

1850年、デュッセルドルフの音楽監督に招かれて移住。
同地の明るい風光はシューマンに良い影響を与え、交響曲第3番『ライン』やチェロ協奏曲、多数の室内楽曲を作曲するとともに第4交響曲の改訂をおこなった。

大規模な声楽曲『ミサ曲 ハ短調』や『レクイエム』も手がけた。
しかし、1853年には余りに内向的なシューマンと楽員の間が不和になり、11月には指揮者を辞任することとなった。『ヴァイオリン協奏曲』はこの頃の作品である。

年を追うごとに・・・

1842年には『ピアノ五重奏曲』などの室内楽曲が集中して書かれ、さらにその翌年にはオラトリオ『楽園とペリ』が書かれるなど、年を追うごとにシューマンの作品の幅は広いものとなっていった。

1844年、ドレスデンに移住。ピアノ協奏曲などの作曲に励んだが、この頃から徐々に精神の均衡が崩れる兆候が出てくるようになり、その危機を脱しようとバッハの研究に没頭、オルガンやピアノのためのフーガを書き、また、1845年から翌年にかけて、交響曲第2番を作曲した。

1848年には唯一のオペラ『ゲノフェーファ』が書かれた。

歌の年

ピアノ曲ばかりを作曲してきたシューマンだったが、1840年には歌曲の作曲に熱中し、1年ほどの間に『詩人の恋』、『リーダークライス』作品24と作品39、『女の愛と生涯』などを続々作曲した。
いわゆる「歌の年」と呼ばれる。

1841年は「交響曲の年」と呼ばれ、交響曲第1番『春』や交響曲第4番の初稿が書かれた。
このうち第1交響曲は3月31日にすでに親友となっていたフェリックス・メンデルスゾーンの指揮でライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会で初演され、大成功をおさめた。